東京直下型の地震が起きたら、交通網の分断により自宅に帰ることが出来なくなる帰宅困難者は650万人に昇ると予想されていました。今回の震源は三陸沖だったため、ここまでの数ではなかったとは思いますが、土曜日の朝、東京を離れる電車の中は仕事帰りの人で一杯でした。スーツ姿にヘルメットをかぶった人、前日、買った非常食を入れたコンビニ袋を手にした人、でも表情には家に帰れると言う安堵感がありました。
大地震の直後の土曜日には私も自分の家に帰れた安心感と復興への期待を感じていました。
日曜日も電車は正常に動いていませんでしたが、良い天気で、私もデパートへ出かける気分になりました。デパートは通常営業し、買い物客の様子もいつもの日曜日と変わりありませんでした。
大震災の後だと感じたのは、エレベーターに乗るとき、途中で地震があって止まらないだろうか、と少し不安になったことぐらいでしょうか。
用事が終わろうとする頃、店内放送がありました。「ただいま、地震がありました。当店の建物は安全です。」地震には気づきませんでしたが、かえってまだ非常時だ、と不安になり、非常口を確認しながら、家へと向かいました。
道路はいつもより空いていたのですが、ガソリンスタンドにだけ車の列が出来ていました。その時は理由が良くわかりませんでした。
帰宅後、友人と近くのスーパーに行ったとき、初めて理由が分かりました。
スーパーからはパンと水、牛乳、インスタントラーメン、お米といったものが消えていたのです。普段、日本のスーパーで空っぽの棚を見ることはほとんどありません。買占めが起きていたのです。
土曜日から電力不足は報道されていましたが、日曜日、東京電力が計画停電を実施することを発表しました。私は電車網のことは心配でしたが、ガソリンや食品の心配はしていませんでした。でも地震や停電という非常事態に食料やガソリンを確保しておきたがる人がたくさんいたのです。こういう消費行動は理解できますが、私はするつもりはありませんでした。
しかし、空っぽの棚とレジに並ぶ品物でいっぱいのカートを見ると自分も何か買っておかなくてはいけない気持ちになってきます。この心理が買占めを呼ぶのでしょう。
レジやガソリンスタンドに並ぶ人々を見ていると、物不足を経験した世代、小さな子供のいる家族に切迫感が強いことはよくわかります。
しかし、私のように「パンがないのよ」と言う言葉に惑わされて、パンを見たら要らなくても買ってしまうケースも多いのです。
いつもは昼ごはんを外で食べるサラリーマンも早朝からパン屋さんでランチを買います。そうすると、お昼休み、コンビニにもパン屋さんに行くとパンやカップ麺がないと言う状況が出来るわけです。
地震の影響が全くなかった関西でも直後から買占めが始まったと友達から聞きました。
地震直後、在庫は充分あったはずです。でも、人々の消費行動が変わってしまい、部分的に物不足が起きてしまう。そのうちに、被災による生産活動の遅れ、減少、そして流通の乱れが起こり、本当に必要な人に必要なものが届かない状態になってしまいました。
商店には被災地への供給のため、品薄になっています、との張り紙があります。
石油連盟は、不要不急の給油を控えることが、被災者の支援になると新聞広告を出しました。
人々も、パンもお米も次の日でも買えることがわかり、買占め行動はおさまってきました。
日本人は安全と安心はただで手に入るものだと考えていました。世界全体で見たときには、公共サービスや社会システムの機能に大きな信頼を持っている国民だと言えるでしょう。
しかし、阪神淡路大地震、9.11、また社会保険システムの問題を経験し、自己責任と言う意識が芽生えつつあります。
もちろん、自分の安心と安全は自分で守るという意識は大切です。
一方で従来の日本の社会システムは近隣の人同士の助け合いの精神から生まれたものです。
今、それをもう一度、活かす時が来ているのではないでしょうか。
とおやまあつこ
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